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織田作之助『アド・バルーン』 [読んだ本 / 好きな文章]

織田作之助 (ちくま日本文学 35)

織田作之助 (ちくま日本文学 35)

  • 作者: 織田 作之助
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2009/05/11
  • メディア: 文庫
日本人の作家で自分がいちばん好きなのは今でもやっぱり色川武大(いろかわたけひろ)で、それを超える人はなかなか出てこないんよね。まあ単純に本を読んでいないだけなんだけど。で、文学史的な文脈において色川武大が語られると、ほとんどの場合が「無頼派」というくくりに入れられていて、その無頼派っちゅうグループの代表的作家として坂口安吾と織田作之助が必ず挙げられているんだ。坂口安吾は1~2冊読んだことがあるからもういいとして(え!?)、織田作之助は未体験だったから読んでみた。だって、「ああ、織田作之助? やっぱり無頼派を語る上では外せないよね~」とか言いたいじゃん? なんかカッコいいじゃん? 一体どこが? あと、怖ろしいことにこの本を読んだのは2~3年前の話で、ついこないだ急に思い出して書いています。老化おつ。

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買ったのは、お気に入りの「ちくま日本文学全集」(の古本をゾンアマで)。読んだ感想としては、むー、オレの読書偏差値が足りないせいか、そこまで面白いとは感じませんでした。「面白い」とか言うタイプの文章ではないのかもしれんけど。特に代表作とされる『夫婦善哉』にいたってはイライラしっぱなしで。10年後ぐらいに読んでみたらまた違うのかな。ただ、そこかしこにキラッと光る何かを感じたのも確かだよ。
以下、ちょっと長いけど『アド・バルーン』という短編の一部を引用してみる。主人公が、継母の浜子によって夜店へ連れて行ってもらった7歳の頃を回想するくだり。ここの描写は文字通りキラキラしていて、すごく好き。

新次はしょっちゅう来馴れていて、二つ井戸など少しも珍しくないのでしょう、しきりに欠伸などしていたが、私はしびれるような夜の世界の悩ましさに、幼い心がうずいてたのです。そして前方の道頓堀の灯をながめて、今通って来た二つ井戸よりもなお明るいあんな世界がこの世にあったのかと、もうまるで狐につままれたような想いがし、もし浜子が連れて行ってくれなければ、隙をみてかけだして行って、あの光の洪水の中へ飛び込もうと思いながら、「まからんや」の前で立ち停まっている浜子の動き出すのを待っていると、浜子はやがてまた歩きだしたので、いそいそとその傍らについて堺筋の電車道を越えた途端、もう道頓堀の明るさはあっという間に私の躯をさらって、私はぼうっとなってしまった。

〈~中略~〉

目安寺を出ると、暗かった。が、浜子はすぐ私たちを光の中へ連れて行きました。お午の夜店が出ていたのです。お午の夜店というのは午の日ごとに、道頓堀の朝日座の角から千日前の金比羅通りまでの南北の筋に出る夜店で、私は再び夜の蛾のようにこの世界にあこがれてしまったのです。 おもちゃ屋の隣に今川焼があり、今川焼の隣は手品の種明かし、行燈の中がぐるぐる廻るのは走馬燈(まわりあんど)で、虫売りの屋台の赤い行燈にも鈴虫、松虫、くつわ虫の絵が描かれ、虫売りの隣の蜜垂らし屋では蜜を掛けた祗園だんごを売っており、蜜垂らし屋の隣に何屋がある。と見れば、豆板屋、金米糖、ぶつ切り飴もガラスの蓋の下にはいっており、その隣は鯛焼屋、尻尾まで餡がはいっている焼立てで、新聞紙に包んでも持てぬくらい熱い。そして、粘土細工、積木細工、絵草紙、メンコ、びいどろのおはじき、花火、海豚の提灯、奥州斎川孫太郎虫、扇子、暦、らんちゅう、花緒、風鈴……さまざまな色彩とさまざまな形がアセチリン瓦斯やランプの光の中にごちゃごちゃと、しかし一種の秩序を保って並んでいる風景は、田舎で育って来た私にはまるで夢の世界です。ぼうっとなって歩いているうちに、やがてアセチリン瓦斯の匂いと青い灯が如露(じょうろ)の水に濡れた緑をいきいきと甦らしている植木屋の前まで来ると、もうそこからは夜店の外れでしょう、底が抜けたように薄暗く、演歌師の奏でるバイオリンの響きは、夜店の果てまで来たもの哀しさでした。

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