こめかみの紙 [読んだ本 / 好きな文章]
■ 40代のクソ豚おっさんの分際で『中学生までに読んでおきたい日本文学』という本を最近読んでいるのだけど、その中の一編「少女」(by野口冨士男)という話の中で長年の謎がひとつ解消した。つまり…
■ 昔のおばあさんがこめかみに貼っていた紙は薬だったのか!! ドリフで志村のババアを見るたびに、あれ何だろうって思ってた。
■ 昔のおばあさんがこめかみに貼っていた紙は薬だったのか!! ドリフで志村のババアを見るたびに、あれ何だろうって思ってた。
織田作之助『アド・バルーン』 [読んだ本 / 好きな文章]
日本人の作家で自分がいちばん好きなのは今でもやっぱり色川武大(いろかわたけひろ)で、それを超える人はなかなか出てこないんよね。まあ単純に本を読んでいないだけなんだけど。で、文学史的な文脈において色川武大が語られると、ほとんどの場合が「無頼派」というくくりに入れられていて、その無頼派っちゅうグループの代表的作家として坂口安吾と織田作之助が必ず挙げられているんだ。坂口安吾は1~2冊読んだことがあるからもういいとして(え!?)、織田作之助は未体験だったから読んでみた。だって、「ああ、織田作之助? やっぱり無頼派を語る上では外せないよね~」とか言いたいじゃん? なんかカッコいいじゃん? 一体どこが? あと、怖ろしいことにこの本を読んだのは2~3年前の話で、ついこないだ急に思い出して書いています。老化おつ。
買ったのは、お気に入りの「ちくま日本文学全集」(の古本をゾンアマで)。読んだ感想としては、むー、オレの読書偏差値が足りないせいか、そこまで面白いとは感じませんでした。「面白い」とか言うタイプの文章ではないのかもしれんけど。特に代表作とされる『夫婦善哉』にいたってはイライラしっぱなしで。10年後ぐらいに読んでみたらまた違うのかな。ただ、そこかしこにキラッと光る何かを感じたのも確かだよ。
以下、ちょっと長いけど『アド・バルーン』という短編の一部を引用してみる。主人公が、継母の浜子によって夜店へ連れて行ってもらった7歳の頃を回想するくだり。ここの描写は文字通りキラキラしていて、すごく好き。
新次はしょっちゅう来馴れていて、二つ井戸など少しも珍しくないのでしょう、しきりに欠伸などしていたが、私はしびれるような夜の世界の悩ましさに、幼い心がうずいてたのです。そして前方の道頓堀の灯をながめて、今通って来た二つ井戸よりもなお明るいあんな世界がこの世にあったのかと、もうまるで狐につままれたような想いがし、もし浜子が連れて行ってくれなければ、隙をみてかけだして行って、あの光の洪水の中へ飛び込もうと思いながら、「まからんや」の前で立ち停まっている浜子の動き出すのを待っていると、浜子はやがてまた歩きだしたので、いそいそとその傍らについて堺筋の電車道を越えた途端、もう道頓堀の明るさはあっという間に私の躯をさらって、私はぼうっとなってしまった。
〈~中略~〉
目安寺を出ると、暗かった。が、浜子はすぐ私たちを光の中へ連れて行きました。お午の夜店が出ていたのです。お午の夜店というのは午の日ごとに、道頓堀の朝日座の角から千日前の金比羅通りまでの南北の筋に出る夜店で、私は再び夜の蛾のようにこの世界にあこがれてしまったのです。 おもちゃ屋の隣に今川焼があり、今川焼の隣は手品の種明かし、行燈の中がぐるぐる廻るのは走馬燈(まわりあんど)で、虫売りの屋台の赤い行燈にも鈴虫、松虫、くつわ虫の絵が描かれ、虫売りの隣の蜜垂らし屋では蜜を掛けた祗園だんごを売っており、蜜垂らし屋の隣に何屋がある。と見れば、豆板屋、金米糖、ぶつ切り飴もガラスの蓋の下にはいっており、その隣は鯛焼屋、尻尾まで餡がはいっている焼立てで、新聞紙に包んでも持てぬくらい熱い。そして、粘土細工、積木細工、絵草紙、メンコ、びいどろのおはじき、花火、海豚の提灯、奥州斎川孫太郎虫、扇子、暦、らんちゅう、花緒、風鈴……さまざまな色彩とさまざまな形がアセチリン瓦斯やランプの光の中にごちゃごちゃと、しかし一種の秩序を保って並んでいる風景は、田舎で育って来た私にはまるで夢の世界です。ぼうっとなって歩いているうちに、やがてアセチリン瓦斯の匂いと青い灯が如露(じょうろ)の水に濡れた緑をいきいきと甦らしている植木屋の前まで来ると、もうそこからは夜店の外れでしょう、底が抜けたように薄暗く、演歌師の奏でるバイオリンの響きは、夜店の果てまで来たもの哀しさでした。
のりこ [読んだ本 / 好きな文章]
クソ中年の琴線に触れた文を書きなぐるこのコーナー。今回は、若い女性が重い肺病で入院している男を見舞いに行く場面です。こんなに繊細で綺麗な日本語、すごいな。って辞書を引いたら、伊藤整は詩人でもあるんだね。
「で、なにをするんだい?」
「満子さんて友達の叔母さんの喫茶店に住み込むことになったの」
速雄はだまっていた。その黙りかたが、指で壁を撫でまわすような彼の心の動きを典子にさとらせた。そう君がきめたのなら仕方がない。君はそういうことをする女なのだ。だが、僕がよくなって、君の生きてゆく道をそばから見てやることは、できそうもない。君はひとりで生きてゆけるのか。一人で生きてゆく自信か強さを持っているのか。君の生きている世界は、大きな海のようなものだ。僕は岸に残っている。僕にどうしようがあろう。君はそうなるひとだ、と彼の心があてもなく動くのが、よく典子にはわかるのだった。
~中略~
「いつ?」と彼は言った。肉体ある人間としての自分は棄て、ただ静かなやさしい心で典子のふれてくる言葉だった。
「二三日うちだと思うの」
「そうか」と言って、速雄の瞼(まぶた)は、大きな黒い眼の玉を撫でるように、ゆっくりとさがり、そのままじっとしていた。
典子には、今日、速雄のその尻込みの仕方がありありと分かるのだ。もう速雄は自分と一緒に歩いてゆくことはできないと思っている。残っている生命を全部まとめて、その眼に美しい輝きを漲らせることはできるが、それとてもう典子の生きている騒然とした世界には届かないものだった。自分は、もうこれから一人で生きなければならないのだという思いと、もうこの人は、自分の世界から遠く離れているという感じとが、典子を怖ろしい孤独感でうちのめした。
そうだったのだ。自分はもうひとりぼっちなのだ、と思い、典子はじっと速雄の手にすがっていた。何ももう言うことがなかった。
「私ね」と小声で言うと、速雄はやっと頭を彼女の方にねじ向けた。「あなたが早くよくならなかったらひとりで寂しい」
速雄はそのいっそう大きく見えるようになった骨ばった手をあげて典子の頭を撫でてくれた。そうだよ、もう僕たちは、本当の事が言えないほど別れが近くなっているのだ、とその手が言っていた。伊藤整 『典子の生きかた』より
おやこ [読んだ本 / 好きな文章]
ぴんと張りつめてるどころか、ダルダルにたるみまくってるマイ琴線にふれた文章を突発的に紹介するコーナー。
自分はよく両親に伴われた子を――たとえば電車で向かい合った場合などに観る時、よくもこれらの何の類似もない男と女との外面に顕れた個性が小さな一人の顔となり、身体つきなりの内に、しっとりと調和され、一つになっているものだと言う事に驚かされる。最初、母と子を見比べて、よく似ていると思う。次に父と子を見比べてやはり似ていると思う。そうして、最後に父と母とを見比べて全く類似のないのを何となく不思議に思う事がある。志賀直哉『網走まで』
みゆきとしゅうごろう [読んだ本 / 好きな文章]
■ 宮部みゆきの『火車』を読んだ。つっても1年以上も前の話。だから、今さら感想を書こうにも、もうあんまり細かいこと覚えていない(当たり前!)んだけど、世間で絶賛されているほど面白いとは思わなかったっていうのが偽らざるところ。宮部みゆきを初体験した『返事はいらない』っていう短編集よりは楽しめたものの…。「山本周五郎賞に輝いたミステリー史に残る傑作」にこんなクソ虫ふぜいが偉そうなこと言ってサーセン(><) なんかね、とっかかりがないまま読み終わってしまったというか、どこらへんで盛り上がれば良いのか分かんないまま最後のページにたどり着いてしまったというか。
■ 強引に山本周五郎つながりでついでに書かせてもらいますと、シューゴロー先生による『ちいさこべ』も同じ頃に読んだよ。きっかけは望月ミネタロウによるマンガ(『ちいさこべえ』)を先に読んでいたことで、マンガはその時点では完結していなかったものの、たいそう面白くて、これなら原作もさぞや…しかも山本周五郎なんだし…って、思わず文庫本を手にとってしまった次第。マンガとは時代設定の他にも相当違う部分があったけれど、やっぱり爽やかな読後感といいましょうか、さっぱりした短編でかなり良かったよ。マンガ版(全4巻)も激しくオススメ。
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■ 強引に山本周五郎つながりでついでに書かせてもらいますと、シューゴロー先生による『ちいさこべ』も同じ頃に読んだよ。きっかけは望月ミネタロウによるマンガ(『ちいさこべえ』)を先に読んでいたことで、マンガはその時点では完結していなかったものの、たいそう面白くて、これなら原作もさぞや…しかも山本周五郎なんだし…って、思わず文庫本を手にとってしまった次第。マンガとは時代設定の他にも相当違う部分があったけれど、やっぱり爽やかな読後感といいましょうか、さっぱりした短編でかなり良かったよ。マンガ版(全4巻)も激しくオススメ。