クソ中年の琴線に触れた文を書きなぐるこのコーナー。今回は、若い女性が重い肺病で入院している男を見舞いに行く場面です。こんなに繊細で綺麗な日本語、すごいな。って辞書を引いたら、伊藤整は詩人でもあるんだね。

「で、なにをするんだい?」

「満子さんて友達の叔母さんの喫茶店に住み込むことになったの」

 速雄はだまっていた。その黙りかたが、指で壁を撫でまわすような彼の心の動きを典子にさとらせた。そう君がきめたのなら仕方がない。君はそういうことをする女なのだ。だが、僕がよくなって、君の生きてゆく道をそばから見てやることは、できそうもない。君はひとりで生きてゆけるのか。一人で生きてゆく自信か強さを持っているのか。君の生きている世界は、大きな海のようなものだ。僕は岸に残っている。僕にどうしようがあろう。君はそうなるひとだ、と彼の心があてもなく動くのが、よく典子にはわかるのだった。

~中略~

 「いつ?」と彼は言った。肉体ある人間としての自分は棄て、ただ静かなやさしい心で典子のふれてくる言葉だった。

 「二三日うちだと思うの」

 「そうか」と言って、速雄の瞼(まぶた)は、大きな黒い眼の玉を撫でるように、ゆっくりとさがり、そのままじっとしていた。

 典子には、今日、速雄のその尻込みの仕方がありありと分かるのだ。もう速雄は自分と一緒に歩いてゆくことはできないと思っている。残っている生命を全部まとめて、その眼に美しい輝きを漲らせることはできるが、それとてもう典子の生きている騒然とした世界には届かないものだった。自分は、もうこれから一人で生きなければならないのだという思いと、もうこの人は、自分の世界から遠く離れているという感じとが、典子を怖ろしい孤独感でうちのめした。

 そうだったのだ。自分はもうひとりぼっちなのだ、と思い、典子はじっと速雄の手にすがっていた。何ももう言うことがなかった。

 「私ね」と小声で言うと、速雄はやっと頭を彼女の方にねじ向けた。「あなたが早くよくならなかったらひとりで寂しい」

 速雄はそのいっそう大きく見えるようになった骨ばった手をあげて典子の頭を撫でてくれた。そうだよ、もう僕たちは、本当の事が言えないほど別れが近くなっているのだ、とその手が言っていた。

伊藤整 『典子の生きかた』より