『キック・アス』
2010年アメリカ、イギリス/監督:マシュー・ヴォーン
http://www.kick-ass.jp/index.html

クラスの女子からは無視されて、通りを歩けばチンピラたちにカツアゲされる。高校生のデイヴ(アーロン・ジョンソン)は冴えない青春真っ只中。そんな彼は、ある時ふと思う。僕は悪に立ち向かうヒーローになりたいと。なってはいけない理由なんてどこにもないじゃないかと。自前で揃えたタイツを着込んだ彼が、街中で偶然出くわした暴行現場でボコボコに殴られながらも果敢に正義を貫くと、その模様が動画サイトにアップされたからさあ大変。一躍、本当に街のヒーロー"キック・アス"となったのだ。調子に乗って悪漢退治を続けるも、そこにバットマンのコスチュームを着た男性"ビッグ・ダディ"(ニコラス・ケイジ)と少女"ヒット・ガール"(クロエ・グレース・モレッツ)の謎めいた親子まで現れて…というお話。


また例によってテレ東『SHOWBIZ COUNTDOWN』で知ってから日本での公開を待っており。けれど東京では公開館が少ないしタイミングが合わないしで。こりゃ無理かなと諦めかけていたら近所の映画館でレイトショー限定での公開が決定し。なんてラッキー。喜び勇んで観に行ったら、期待以上に面白くて大満足でした(※左の画像はネットでの拾い物なので、自分が撮ったわけではありませんので念のため)


もっと小規模予算っぽい、派手なシーンはあんまり無くて「冴えない君」のダメ日記みたいな感じなのかと思ってた。そう、『スーパーバッド 童貞ウォーズ』みたいな。したら、確かにそういう面もあったけれども、すげえカッコいい映像が満載なんですけど。 そして、最初はバカ映画かと思いきやシリアスでハードでタフなストーリーへとぐいぐい変貌、こちらがあわあわして固唾を飲んで見守るクライマックスでやっぱりこれは壮大なバカ映画だったんだとトドメをさされる。なんなんだ、これは…。基本的にはコミカルな映画だとは思うんですけど、本気度がハンパじゃないっていうか、ものすごく一生懸命にアホな映画を作ったという。これは褒めてます。


これは日頃洋画を観ながらうっすら感じていたことをこの作品を楽しんでいる最中にもボンヤリと考えたことで、向こうの映画における「文法」ないし「技法」は、それぞれがもうある一定のレベルで確立されていて、監督の力量とは個々の「文法」「技法」そのものではなく、もうその上の、ノウハウの集合体みたいなものをどのようにまとめるか、あるいはどのように選んで組み合わせるのかというレベルに達しているのだろうなと痛感しました。この狂人は何言ってんのかさっぱり分かんないですね、すいません。


例えば街の通りをスポーツカーで流す、ただそれだけのシーンを、どんな角度でどのような音楽をつけながら撮ったらカッコ良くなるのか、その基礎知識というか最低ラインみたいなものが向こうの人たちの(一部だか多くだかは分からないけど)共有されている気がするんです。あるいは、銃を撃つシーンでどうすれば迫力ある映像になるのか、はたまたクスクスと笑いを誘うシーンではどんな「間」をつけるべきなのか、とかとか…。日本の映画も、もちろん面白いのは沢山ありましょう。立派な映画は多く撮られておりましょう。でも、それは一人ひとりの監督の技によるもので、邦画界全体によるノウハウの積み重ねという観点から考えると、なんとも心許ないような気がするのです。なんか知ったかぶった映画論みたいな感じになってごめんなさい。これは何の裏付けもなく(え!?)、映画観ながらただテケトーに考えたことなので怒らないで。




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映画本編とは関係ないんですけど、今回は東京・大泉のTジョイというシネコンで観てきました。最近はシネコンであればたいていユナイテッド・シネマだったので、ここは久しぶり。そしたら、チケットの販売方法が自動発券機オンリーになっていてびっくりしました。



受付のきれいなお姉さんによる、にこやかな顔のうらに潜む「週末の夜に一人で映画観るしか脳がねえのかよこのゴミ虫がッ!」という視線。それを受けながらチケットを渡される恥辱プレイを楽しみにしていた一人としては、なんとも残念なシステム変更であります。オレが全身に浴びたいのは松山ケンイチの視線ではなく、あのお姉さんの突き刺すような眼差しなんだ…。機械化にシンボライズされる近代合理主義とは、レイトショーで芽生えるささやかな劣情すら許さぬものなのか。嗚呼、無情。