スティール・ボール・寄生獣 [読んだ本 / 好きな文章]
あなたは時々、わたくしに赤い顔をおさせなさいますわ [読んだ本 / 好きな文章]
『青べか物語』において、その巧みな人物描写にいたく感銘を受けた(過去ログ宣伝厨)山本周五郎先生の短篇集。読むのに数ヶ月かかったよ。内容が難しいわけでもないしボリュームがあるわけでもない。暇なときに読もうとしていたけど、その「暇なとき」をスマホの野郎がどんどん吸い取っていき、読書なんていう娯楽はどこかへ消えちまったのさ。ほんま、あいつは現代の時間泥棒やで…。
ともあれ、タイトルから想像される通り、12編あるうち10話が江戸時代のお侍や町人、職人らが主人公の時代物。そのほとんどが多かれ少なかれ人生の悲哀を感じさせるもので、そこにチャンバラのアクションシーンが盛り込まれているものも結構あって、なかなか面白かったです。
いまパラパラめくってみると、「大将首」っていう話がいちばん好きかも。長年うだつが上がらず奥さんに迷惑をかけっぱなし、でも腕は一流という下っ端侍が、手違いで藩の上官と斬り合いになってしまい…という筋で、夫婦の絆にホロリ&結末がちょうスカッとする。これに限らず、全話に通俗的なB級テイストがプンプンしていて、まさに娯楽ものやね。
この本は、いろんな雑誌に読み切りとして書かれた作品を集めたものらしいんだけど、そのどれもが古くていちいちビビった。各話の最後に初掲もととして(「キング」昭和八年二月号)とか、(「講談倶楽部」昭和十四年十月号)とか載ってる。もちろん昭和だろうとは思っていたものの、まさか戦前とは。
でも、いままで社会の史料集経由で単なる知識としてしか知らなかったあの有名な『キング』がグッと身近に感じられて、ああ、その誌面に印刷されていたこういうお話を戦前の人たちはエンターテインメントとして楽しんでいたのだなあという実感、いわば「臭い」がひしひしと伝わってきた。その生々しい臭覚がいちばんの収穫ッス(ダジャレ)。あとがきを読むと、そういう大衆的な雑誌に書くことにシューゴロー自身は複雑な思いをいだいていたようで、『青べか物語』のことも考えると、その点もなかなかに感慨深いものであるッス。
トーソン初体験 [読んだ本 / 好きな文章]
数年来にわたってお世話になっている床屋さんには、暇つぶしのための本の中に「漫画で読む日本の古典」みたいなのが何冊か置かれています。そこで途中まで目を通したのがこの『破戒』(の漫画版)ッス。へー、受験勉強で作品名だけは知ってたけどこんな話なのかーと興味をもって、本物のほうも読んでみた。
明治期の長野の学校を舞台に、主人公の教師が被差別部落出身であることをひた隠しにして過ごすが…というお話。さぞかし堅苦しくて読みづらい本なんだろうなと思っていたら、意外や意外、そんなことはほとんどなくて、ぐいぐいとお話に引っ張られてしまった。文体や言葉遣いはさすがに古い(し、当て字がめちゃくちゃに多い!)んだけど、ストーリーがエンターテイメントしてて飽きなかったんよ。
つまり、主人公・丑松の出自がバレそうになる過程をじわじわと遠いところから描いていって、クライマックスでバーンっていう感じ。そのハラハラっぷりがしっかりと飽きさせない仕組みになっていたし、想像もしていなかった淡い色恋のお話も並行して進んでいくしで。これが島崎藤村の狙ってやったことか、はたまた結果的に起伏に富んだ構成になったのか…やっぱどう考えても前者だろうな。いままで「苗字とファーストネームが紛らわしい人」程度の認識でしたけど、まじすいませんでした。トーソンさすが。
それにしても差別問題っちゅうのは根が深いやね。特に気になったのが、この小説での差別の捉えられ方。それは、差別そのものを憎むというよりは、差別されてしまう身分・立場を憎むっていうスタンスであるような気がすること。現代から考えると、そりゃちょっと違うよというツッコミも入れることが出来るかもしれないけど、やっぱそれは後世ならではの特権であって、差別に対する闘争(?)においては必然的にこういうプロセスを辿るものなのかもしれない。ごめん、本当に何言ってるのか分からない文章だ。
オレ自身、正直言って、差別というものがよく分からないです。それが良くないものっていうことは「何となく」というレベルでは理解しているつもりなんだけど、その理論的なバックボーンとなると極めて心許ないッス。おまえはボンクラ私大の法学部で何を学んだのかね。
しかも、自分自身の中にも差別意識の芽のようなものが絶対にあると思う。それを、お勉強で学んだ清らかな建前で封じ込めて涼しい顔してるだけなんじゃないかっていう自分に対する疑念。うーん、やっぱり根深いゼ。
アメリカの人気作家であるところのスティーヴン・キングは進んで読むくせになんなのこの人 [読んだ本 / 好きな文章]
恥ずかしながら、ベストセラー作家・宮部みゆきの著作はこれまで一回も読んだことがなくて、でもあるとき急に『火車』っていう代表作(なのかな?)を読みたくなって、すげえ売れたんだろうから古本屋にあるハズと思って突入するも見当たらず、その代わりと言っちゃあなんですけど、この短篇集『返事はいらない』を買ってきたわけです。「読みたいなら新品で買えよクズが」という批判はご無用、オレクラスのケチンボともなると暇つぶし用の文庫を新品で買うという発想がハナから無いのです。
んで初・宮部の感想としては、うーん、いまいち。各話それぞれがミステリーっぽい鮮やかな(と作者が考えているであろう)オチがついているものの、そこにたどり着くまでのストーリー展開が強引ちゅうか、「こんなすごい結末考えちゃったんで、なんとかそこに持ってくためには…」みたいな苦しさがひしひしと感じられるっちゅうか。読んでいる間、それがどうしても気になっちゃった。
ひょっとすると、これはオレが小説に求めているものが宮部ファン(?)とはちょっと違っていて、こういうのが好きな人にはたまらんのかしらと思わなくはないです。あと、たった1冊だけで宮部みゆき分かったような気になってんなよてめえというお叱りもちょういただきそう。人気作家、怖い。
そう、そうなんですよ。オレの脳内フォルダで、「いま人気の日本の作家さん」ていうのがあって、そこにこの宮部みゆきと東野圭吾が入っています。で、東野圭吾も昔『変身』っていうのを読んだことがあるんだけど、それはハッキリ言うとぜんぜん面白くなくて。なんでこれが売れたのかなーとさえ思ったぐらい。
それ以来、東野圭吾がどれだけ売れようと、いや、売れれば売れるほど、「ああ、『変身』の人かあ…」みたいなレッテルが自動的に貼られてしまうようになって読む気をなくすばかりか、その影響がこのフォルダ全体にまで及んでしまって、「宮部みゆきもきっとさあ…」とか、「読んだこと無いけど、名前をよく聞く伊坂幸太郎っていう人もたぶん…」みたいな、当世人気作家に対する謂れなき偏見がオレを覆うことになっています。この病を治すには、やっぱり彼らの作品を読んでいくしかない。手始めに、そう、『火車』だな。ただし古本で。
私って、ほら、もともと粗悪品でしょ。ただのビニール人形だから。 [読んだ本 / 好きな文章]
こないだ感想文みたいな何かを書いたスティーヴン・キングの『ローズ・マダー』は上下巻を読み続けるのが飽きそうだった(え!? あんだけ面白いとか言ってたのに!)から、その2冊の間にこれを読みました。いしいしんじの「『ぶらんこ乗り』の前史時代、原石の魅力が煌く幻のデビュー短篇集」(裏表紙より)だそうで。
18話それぞれの短篇に下北沢だとか田町だとか霞ヶ関だとか、各エピソードの舞台となる東京の地名が掲げられていて、それをざっと眺めるだけで何だか楽しい。そして、それぞれの内容もバラエティー豊かで、不思議なものもあれば切ないものも、あるいは可笑しかったりちょっとゾッとするようなものも。この本、好きだな。
とりわけ気に入ったのは、古書店街で不思議なじじいと出会う「老将軍のオセロゲーム 神保町」、大海原を股にしてのロマンスを描く「クロマグロとシロザケ 築地」、捨てられたダッチワイフとの切ない話「天使はジェット気流に乗って 新宿ゴールデン街」、"先生"と呼ばれるホームレスとのほんわかした交流がテーマの「吾妻橋の下、イヌは流れる 浅草」の4つかしらん。他にも面白い話がもちろんあったし、やっぱこの人うまいなー。
さいごに、「老将軍のオセロゲーム」から好きな文章を。おまえ何かっつうとすぐ引用すんのな!
神保町ほど「内と外」のコントラストが鮮やかな場所はない。他人がいて、会話があって、太陽が照って風が吹く。そういう「外」を、「内」、つまり店の中ではまったく意識することがない。洋書専門店の二階にいたりすると、外で世界が終わってしまっていてもきっと気づかないだろう。核シェルターが欲しい人は古本屋で働くことだ。
本は違った世界への扉を開く、と小学校で国語の教師が口酸っぱく言っていた。たしかにその通りだ、とぼくは思った。そのかわり、表紙をめくると背後でもうひとつの扉が閉まる。本は「外」の世界を一時的にしろ滅ぼしてしまう。
古本は、それぞれ一冊がいろんな世界を滅ぼしてきた。兵器としての年季が、そこらの新刊本とは違うのだ。もはや「なにかのため」に書かれる実用書などは、兵器として用をなさない。